『風景でいよう』 #7
宮本常一の『忘れられた日本人』には、昭和中期頃に既に消えつつあった日本元来の姿、人々の暮らしやその生き様が、当時の人々の会話を交えることよって活き活きと描かれている。ほんの五十年前まで山道には馬を走らせ、夜になれば軒先に火を掲げていた彼らの姿があったと思うと、時代の急激な変化を実感しつつ、その姿に不思議と懐かしさを覚える。江戸時代の博物図鑑、高木春山による『本草図説』に描かれた個性的な動植物の絵は、何百年もの時間の隔たりを感じさせない新鮮味に溢れている。作者の生物を見つめる静謐で力強い視線に、深い親しみさえ抱いてしまう。
僕らのなかに確かに受け継がれている「日本的」なるモノや感覚は、どのように伝承されてきたのか。先代が残した人々の聞き慣れない四方山話の語り口や、少々異質な動物の姿は、〈滑稽〉でも〈珍妙〉という印象でもなく、「おかしみ」がある、というのが一番ふさわしいように思えた。
『おかしみとは、ある対象と向き合った主体が違和感を契機に何らかの思考をめぐらせた時に、その主体と対象の間に生じる一時的なものである』
(桑山善之助『笑いの科学』)
経験したことのない時代の日本の姿や感性がこんなにも身近に感じられるのは、様々なかたちの「伝承」が時間的・空間的な断絶によって「違和感」を伴いつつも、そこに生まれる「おかしみ」が〈気付き〉のひとつのしるしであり、その奥行きであるからこそ、それは味わいあるものとして心に深く響く。だがこの日本的な発想の出自は何処にあるのか。
『ひとつひとつ区別していろいろなことを人間がやっているのはすべて妄念、妄想であって、世界というのはほんとうはひとつで、(中略)いうならば、すごいエネルギーの固まり、ただもう存在しているというふうな、そういうものなのだ。』
(『日本語と日本人の心』河合隼雄)
この日本の気質と深く関わる仏教の「真如」という考えの一端に於いては、世界は全て不定型な粘土のようなもので、そこには「違和」など元々存在しない。むしろそれは、そののっぺりとした世界をささくれ立たせる為の、どうしようもなく人間的な事態であり、そこに人間の本質が顕れる。それが単なる「妄想」の産物だとしても、僕らの身の内に潜む「日本的」で「人間的」な原風景は、「おかしみ」を連れて、これから先も伝承されていくのではないだろうか。
(初出:「POPEYE」 2012 DECEMBER Issue788)